2016年5月7日土曜日

『ズートピア』を観る前/観た後に思ったこと

ケモノ好きの友人や知人が続々と「ズートピアはいいぞ」発言をするたびに、私は一種の強迫観念を強めていきました。あのディズニーが、ここに来て擬人化動物活劇に真正面から取り組んだというちょっとした衝撃。普段は映画をほとんど嗜んでいないとはいえ、JMoF2016での発表やFurry研究会(次回は2016年5月21日開催)を通じて、「ケモノを大真面目に語ってみよう」と呼びかけ始めた私として、さすがにこの作品は観ておかないといけないんじゃあないか?自分の意見を持っておかないと、場合によっては示しがつかないんじゃあないか?――そんな強迫観念が、私を数年ぶりに映画館へと駆り立てました。正直な話、観る直前は少し肩がこわばっていました(苦笑)。

たいへんスマートな作品でした。そんなに緊張する必要もなかったですね。その場その場の軽快かつ密度の濃いキャラクター描写は、さすがディズニーだと驚嘆しました。2時間の上映時間があっという間で、ファンの間で「ジュディとニックの後日譚を観てみたい」などの欲求が湧いてくるのもうなずけます。はい、「ズートピアはいいぞ」……と言う前に、上記のとおり自分の意見の用意のため(私って小心者だなあと思いました)、この映画を観て思った個人的な感想を以下にまとめました。一部にネタバレを含みますので、できれば映画鑑賞後にお読みいただければと思います。

「ズートピアはいいぞ」と言わざるを得ない事情


『ズートピア』には無駄なカットがいっさいないと言っても過言ではないと考えています。注目すべき発言や注目すべきアイテムは、それぞれいいタイミングで導入されて劇中で繰り返し使用されるため、考える隙を与えません。「ズートピア」に映し出されるさまざまなカットが、全体的に知恵の輪のようにガッチリと組み合わさっているのです。

探偵もの/バディものの物語として必要なステップ(相互理解、離合集散など)が揃っていて、しかも必要最小限のステップ数に留めています。特に、ジュディがニックをニンジンペンの録音機能で捜査に協力するようハメるシーンから、「野性」化したマンチャスとジュディの存在を快く思わないボゴ署長から逃げおおせた2人がロープウェーで心を通わせるシーンまで、1日も経っていないにも関わらずニックはジュディに自身のトラウマを打ち明けていました。

エッセンシャルな要素だけを抽出して段取り良く描写していくさまは、いわば完成度の高い小論文といったところでしょうか。こうした無駄のなさは、抽出のしにくさの裏返しともいえます。全体的な完成度が高いほど、ネタバレをせずに作品を紹介することが難しくなり、結果「ズートピアはいいぞ」という決まり文句に帰結するのではと感じました。「いいぞ」という表現に対して閉嘴して(黙って)でも「いいぞ」と言いたいのは、オフでその楽しいエクスペリエンスを仲間とともに分かち合いたいという純粋な心の表れだと勝手に解釈しています。

ちなみに、「「ズートピアはいいぞ」と言わしめているファクターは、完成度の高さ」というのは、観る前に私が予測していたものです。

『ズートピア』は社会諷刺映画なのか?


多くの人が『ズートピア』に高評価を与えています。特に、「単なる冒険活劇に留まらず、現代社会にはびこる「ナチュラルな差別」に肉薄した傑作だ」という論説が目立っているように思います。だからこそ私は観る前に緊張していました。単なる映画ではないのなら、身を引き締めて刮目しなければならないと……。

単なる強迫観念だったと今は思います。上記のとおり、無駄がないので話がすっと頭の中に入り、ジュディとニックがテンポよく面白おかしく物語を進行していきましたから、観終わった後は濃密なエンターテインメントに浸った充足感でいっぱいになっていました。

もちろん、身の回りにあるのに気づかない差別や偏見はキーワードの1つではあると思いますが、『ズートピア』の物語の主軸はあくまでジュディとニックの成長物語にあります。もし、私と同じような観念を持っていたら、ディズニーはエンターテインメントを裏切っていない、探偵もの/バディものとして完成度の高い映画なので、そこまで心配する必要はないですよとお伝えしたいです。

ある意味、昨今大ヒットを記録している『Undertale』と似たようなものがあるのかもしれません。

擬人化動物の自由度レベルについて


どのキャラクターにどの種の動物を当てはめるかは、言わずもがな重要だとわかるでしょう。動物種それぞれに対して社会通俗的なイメージが少なからずあり、このイメージをうまくハンドリングすることによってキャラクターをさらに特徴づけることができます。

詐欺師のニックにはキツネを、ズートピア市長にはライオンを、警官には勇ましく大きな動物種を、陸運局(DMV)の係員にはナマケモノを(DMVの事務手続きの遅さの諷刺)……などなど、それぞれの役どころにぴったりなイメージを持った動物種を当てはめていった感じがします。

私は映画を観る前、こうしたセオリー通りの配役を知って、ほんの少しだけ落胆していました。差別や偏見といった既成概念について物語を作るなら、なぜその動物のイメージを超えた配役にできなかったのか?人格の諷刺のための擬人化の域を出ておらず、動物に関する既成概念の力をただ借りたキャラクターなのか?私はディズニーに対して、ディズニーの擬人化動物の自由度レベルにはまだ限界がある、と思っていました。

映画を観た後にその考えを改めました。ズートピアがバディの成長物語のために用意された世界だと解釈すれば、肉食動物バーサス草食動物という誰もが知っている二分律だけで事件のバックグラウンドを構成できます。副次的なテーマは確かにこれですが、あくまで主軸はジュディとニックにあるので、わかりやすさ重視で選んだものと感じました。

さらに言えば、特にガゼルとニックはズートピアにおいて超次元的な存在です。音楽に関わる人はなぜ社会に先立って開放的な考え方を持っているのでしょうか?ガゼルはインタビューで「多様性(diversity)」という単語を口にしますが、おそらく哲学的な意味ではなく、純粋な彼女の立場表明であったように思いました。ニックはさらに進んで、もはやキツネである必要がないくらいの境地に立っているようでした。幼い頃のトラウマとジュディとの関係だけが、彼をキツネたらしめていると感じました。

何を言いたいのかまとめると、ディズニーの擬人化動物の自由度レベルは想像以上に高かったです。トラディショナル(伝統的)な擬人化動物も、コンテンポラリー(共時的)な擬人化動物も、ディズニーは高い品質で描出できます。

ジュディの記者会見の衝撃


私が最も印象に残ったシーンはジュディの記者会見です。ジュディが掴んでいる「事実」に基づき、肉食動物には元来凶暴性が備わっていると発言してしまい、絶望したニックが彼女の許を去るという場面ですね。ジュディの成長ステップとして、バディの成立過程として、探偵もの/バディものの物語のプロットとして、「ナチュラルな差別」を加味しつつありありと描いていました。

特に市長の逮捕は、「ライオンの地位を落とした」という意味で上記の擬人化動物の自由度レベルの高さを示しています。原案はライオンでなくてもよかったが、あえてライオンを起用したのではないか?と勘ぐってしまうくらい、私は感動していました。

『ズートピア』は、今まで再三述べてきたように(哲学的な)多様性や「ナチュラルな差別」を語ることを主軸に置いているわけではなく、それらに対する教訓を交えつつ私たちを楽しませてくれる探偵もの/バディもののエンターテインメントだと思います。ただ、「ナチュラルな差別」に対する敏感度は人によって異なるので、気が付いていたり気にしていたりする人にとってはその面が大きく目に映るはずです。それ故に、「単なる冒険活劇に留まらず、現代社会にはびこる「ナチュラルな差別」に肉薄した傑作だ」という論説が多くなされているのだと考えています。

敏感度の共有は難しいですが、このシーンはそうした「ナチュラルな差別」を端的にわかりやすく描いているので、気づくための最初のとっかかりとして多くの人に注目していただきたいと思います。

テンポの良さに隠された素朴な疑問


「「ズートピアはいいぞ」と言わざるを得ない事情」で、『ズートピア』の完成度の高さについて指摘しました。こうした無駄のない構成は、逆にいえば多くの無駄――やんわりと言えば多くのトリビアを排しているとも言えます。

たとえば、熱帯雨林地区(レインフォレスト)や氷雪地区(ツンドラ・タウン)などでの暮らしぶりは、ジュディが上京(上ズートピア?)するオープニングシーンに一瞬映るだけで、映画鑑賞中にそうした住民の生活感を肌で感じることはできていません。

新米警官のジュディを目の敵にしていたボゴ署長の改心もわかりにくいです。ボゴ署長がガゼルのアプリで遊んでいるシーン、彼に対して圧力をかけてきたレオドア・ライオンハート市長の辞職、ジュディが約束通り失踪した住民を発見、以上3点がきっかけで彼女に対する目線が変わったのだろうとは思いますが、改心そのものの描写はなかったです。

個人的に一番の謎は、ズートピアっ子(なんて呼べばいいのでしょう……?)を「野性」化させる「夜の遠吠え」の存在です。バニーバロウの農園で、「夜の遠吠え」は虫除けとして使用できることと、肉食・草食の区別なく食べた者は凶暴化することが判明しましたが、その危険性がなぜズートピアっ子に認知されていなかったのかが疑問です。もちろん、「野性」化のメカニズムも気になるところではありますが。

極論を言えば、ズートピアはジュディとニックそれぞれの成長と、バディの成立過程のストーリーテリングのためだけに用意された世界のようだとも感じました。

「Zootopia」を「ズートピア」としたこと


映画のタイトルが街の名前である「Zootopia」であるからして、多くの人はおそらく「街のあり方を問う物語」だと想像するのではと思います。そのテーマも確かに含まれていましたが、実際には主軸はあくまでジュディとニックの2人にあると感じました。

ですから、ある意味日本でタイトルが変更されなかったことが不思議です。『ジュディと詐欺師』になっていてもおかしくなかったのでは……(笑)

上記のとおり「ナチュラルな差別」について端的に描いているので、原題からしてズレているとは思っていません。ただ、ストーリーラインを完璧にするあまり、描かれなかった「知りたかった無駄(トリビア)」が多く残ってしまったことが、タイトルに鑑みて物足りなさを感じます。

映画館で私のすぐ後ろに座っていた2人組の女性が鑑賞後、「すごく良かったんだけど、とても惜しいよね」と話していましたが、私もそういう意味では賛同します。

最後に、いままで述べてきたことを短くまとめます。
  • 『ズートピア』はスマートな探偵もの/バディものエンターテインメント作品
  • ディズニーの擬人化動物はもう過去のものではない(特に「ジュディの記者会見」は必見)
  • 『ズートピア』だけではズートピアのことがわからない