2012年3月11日日曜日

「未曾有の大災害」から一年

東日本大震災から一年が経った現在でも、福島第一原子力発電所問題や震災からの復興問題が取り沙汰されております。それもそのはず、歴史的な円高や隣国の中国・韓国その他新興国の台頭もあって、ただでさえ辟易していた日本経済に、更に大震災というものが襲い掛かってきたわけですから、外見からすればますますキャップがされてしまったという状況に陥っております。国家の力・政府の力を動かすことも、なかなかに難しいことなのでしょう。

いや、現行の政府を鑑みる限り、そういったナショナルな、ギャバメンタルなパワーを期待できないという方も多いのではと思います。国境を越えた支援もそうですが、数え切れないほどの人々の力と、願いと、祈りが、大震災からの復興をまず最初に支えているのでしょう。

復興庁が設置されたのもついこの間のように思ってしまいます。日本の官公庁が何か事業を遂行するときは、決まってこうして「函(はこ)」を作っているような気が致します。これの設立をするが為に多額の義捐金を投入したり、これの成員を確保するが為にまた新たに「天下り」の温床を作っていまいか、心配です。こうした手法を「縦割り行政」と呼びますが、本当に必要なものは大義名分を語る「函」ではなく、人と人とが繋がり合う「心」なのだと信じております。

さて、昨年の三月十一日、ボクは何をしていたのかといいますと、飯田橋にある印刷博物館にて、印刷技術を体験するという学習教室に参加しておりました。小学校時代からの友人達と久し振りに再会して、仲睦まじく談笑しているなか、突然地面がズンと突き上げられたような物々しい音にハッとさせられ、特に身を動かさずじっとしていると周囲の物々がガタガタと震えており、「これは地震だ、大きいぞ」と思ったところで、その予測以上の揺れに見舞われました。スタッフの方々に誘導されて、危険と思われる場所から距離を置き、地下一階の大広間にて待機しておりました。この印刷博物館、ガラス張りの建物ではありましたが、比較的新しい、つまり新しい耐震基準を満たすような建物でありましたので、割れたガラスで怪我をするようなことはありませんでした。

しばらくして、携帯端末で事の重大さを知ったボク達は、このまま外に脱出しても思わぬ怪我を喰らう可能性があるだろうと考え、しばらくその場に留まることにしました。すると体験学習の担当者さんから声を掛けられ、もし宜しければ、体験学習をされて経過を精査致しませんかとお誘いを受け、ボク達も恐らく電車は使えない(印刷博物館へは電車を利用して赴いたので、大変な混雑と、駅の閉鎖で待ちぼうけを喰らうのはあまり好しとしなかった)から、折角だからやっていこうと決心し、体験学習を受ける運びとなったのであります。

活版印刷の体験で、版を揃える(文字の一つ一つが判子のような細長い一つの金属のパーツになっていて、それを拾い集めて文章を作っていく)ところから、実際に印刷する(イギリス製の手動の印刷機を使用しました)ところまで、叮嚀に教えてもらいました。体験学習の後、特別に工房内のものをゆっくりと見させてもらいまして、旧い印刷機の解説や、版の素材など、様々なことを解説して下さいました。コーナーの一角、物が散乱してしまっているところがありまして、どうやらこの地震で工房もダメージを受けてしまったようでありました。因みに、栞を制作したのですが、印刷した一文は「驪竜頷下之珠 竜蟠虎踞」でありました。あまり地震とは関係はありません……

さて、博物館を出たボク達が更に建物(凸版印刷さんの建物の地下に博物館があるのです)に留まっていると、社員さんから非常用食糧と水を戴きまして、この対応には一年経った今でも好印象であります。午後六時頃になってようやく一行は帰路へと足を踏み出し、既に繋がり難くなっていた携帯電話で家族と何とか連絡を取ろうと試みながら、数時間歩き続けました。何度か運良く繋がり、自分達の無事を伝えつつ、こうして知人と共に居られることを感謝しました。確かにあの時のボクは言いように無い不安に少なくとも少しは曝されておりました。見たことの無い光景がそこに広がっていた訳でありますから、少なくとも少しは焦心していたのでありましょう。

ご好意にも同行していた友人の一人の家族が車で迎えに行くとの連絡が入り、待機場所として選んだ荻窪で居酒屋に入り、初めて小学生来の友人と酒を交わしました。こうして書いていると、非現実的なことが立て続けに起こった日だったのだと実感させられます。飯田橋から荻窪へはおよそ20キロメートル、休み休み歩いたのですが、およそ八時間ほどボク達はいわゆる「帰宅難民」でありました。車に乗せてもらった際に、こうして迎えに行こうとする車で高速道路も殆ど動かなかったとのことで、帰宅することに必死にならず、どこか避難場所を見付けて一泊した方が無難ではなかっただろうか、という一念に駆られました。ともあれ、こうしてボク達は「久し振りの再会」の日を過ごしたのであります。

この日のことは実は、二日後にmixiの日記で軽く触れていたのではありますが、「未曾有の大災害」から一年を機に、 もう一度、より詳しく書いてみることにした次第であります。

前書きの続きではありますが、原子力発電所の事故の問題はやはり世代間倫理の問題へと今日ではリンクしました。このような危険なエネルギーを後代には残してはいけない - 確かにその論も、その想いも一理あると思います。原子の力、つまり核エネルギーというものは、あの遠く離れた、古来「神」と崇め奉られたことのある太陽の一歩手前のようなエネルギー(核分裂エネルギーと核融合エネルギーを一緒に考えることは、大変な誤謬かもしれませんが、感覚的なものとしてここではお捉え下さい)で、人間が扱うにはあまりにも強大すぎるのかもしれません。

ただ、水力発電や火力発電などが「代替エネルギー」と呼ばれることには、少し警戒感を禁じ得ません。大規模な水力発電を行うには、ダム無しにはなかなか難しいでしょうし、火力発電にいたっては、有限とされる化石燃料を使用します。ダムを作るには、ときに山の生態系を破壊したり、山間の人々の営みを破壊したりしなければなりません。また、化石燃料の過度の使用は、以前は大いに叫ばれた地球温暖化現象への懸念(「地球温暖化詐欺」というタームもありまして、本当に地球は人間による環境破壊によって急激に温暖化しているかどうかは、本物の確証を得てはいないようですが)や、それ以前に大いに叫ばれた大気汚染(その昔よりは技術的に除去能力が向上しているとはいえ、完全に除去するには至らず、また、実は平時の原子力発電より火力発電の排出物の方が放射性物質の濃度が高いとする研究もあるようです)を助長しかねません。そう、その昔、原子力発電は(皮肉なことに)「クリーンエネルギー(温室効果ガスを殆ど出さないという意味で)」とボクを含む子供達は教えられたことがあります。その頃の教科書が残っていれば、説得力があるのですが、この件に関してはボクの個人的な体験談に留まってしまいますので、あまり鵜呑みになさらないで下さい。

つまり、本当に後世に残されるはずのエネルギーに関する「宿題」とは、エネルギーそのものなのです。 現在、クリーンエネルギーという言葉は「再生可能エネルギー」という言葉に取って代わっております。水力発電も含みますが、新しい水力発電はダム無しを実現してくれるかもしれません(実際、そのような小型の水力発電装置を見たことがあります。括弧書きが多くてすみません……)。他にも自然の水を使った発電法には波力や潮力などがありますし、地震の多い日本がア・プリオリに持つエネルギーを利用する方法の一つとして地熱発電があります。また、太陽からの贈り物をエネルギーに換えるという研究も進んでおります。生体燃料(バイオ燃料)については、そのバイオ燃料を作らんが為に食糧供給を圧迫して、価格の高騰に繋がったという懸念材料がありますが、ともあれ、既存のエネルギー生産法に代わる「何か」を、誰もが探しているのであります。技術者でも専門家でもないボクは、一匹の市民として、あらゆる情報を精査し、「正しい知識を得る」と形容するよりは、より大きな目線で、「包括的に捉える・様々なアプローチが出来るようになる」ことを目標にしながら、冷静に熟考出来る存在でありたいです。

さて、重たい話もここまで、最後は定例(とするつもり)の動画紹介であります。


twitterでも紹介しましたが、女性がある月曜日、シャチに追い掛け回され、その後日も、またその後日もストーキングされるという、奇想天外の着想を持ったショートアニメです。

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