≪ 夢の力を使うんだ、それは君の限界を打ち破る ≫
ドイツ語の会話クラスで先日、ドイツからの留学生達との交流会がありました。
ボクの大学では ― 何れの大学に於いても言えましょうが ―
望めば望む程に外国人との交流の機会を作る事が出来ます。
然しボクは高校生時代、コミュニケーション能力の勉強ではなく学問として
言語をただ純粋に掘り下げてみたかった仔竜であって、現在に至る迄に二回しか
挑戦をしておりませんし、それも当講義のカリキュラム上の事、
ボクは単なる夢想家に過ぎない、而して、行るからには行るのであります。
相手は教授が声を掛けた留学生であって、不束なドイツ語と思しき言葉の羅列も
丁寧に聞き分けて下さったので、実践的な能力については判断しかねますでしょう。
自分が尽力して準備してきたフレーズでさえ、忘却の彼方へと消え去っていた以上、
即興で自分の意向を相手に必死になって伝えていました次第であります。
辞書を使うだけでは中々見出しにくいコロケーション(語結合)を確認するには
やはりネイティヴ・スピーカーに訊いた方が早いです。
今回も二つ・三つ程、教えて下さいました。其の内の一つはコレです。
einen Computer nutzen
コンピュータを利用するという表現ですがコロケーション的な違和感を覚えたらしく、
einen Computer gehen
との指南を頂きました。「機械を動かす」という意味で「行く」という動詞を使うのです。
さて余談ですが、ネイティヴ・スピーカーは其の言語について卓越している
事を指すものではなく、生来より社会的に依存する言語的思考が何であるかを
明確に示すものであります。
Chemie
「化学」は、ドイツ北部と南部で発音が異なります。
其の様な指摘を教授に受け乍らも充実した時間を過ごす事が出来たと振り返ります。
◇ ◆ ◇
「文学は一人で行うべき学問である」
其の定石を根底から覆す、グループワークによる比較文学、
ボクにとっては大変意義深く、そして面白いものでありましたよ。
我々が口々に言う事は「発見の連続」との好評であります。
自分の抱いていなかった観点を相手が抱いているという、一見低次の感想の様に
思うかもしれませんが、大変意義のある事でありましょう。
個性を削ぎ落として平凡に向かう手法だ、という批判については、
二元論的な思考の脱却を検討し合える此の環境に於いてそれを批判者が
過小評価している、という批判を呈示させて頂きます。
[ 2009 / 12 / 15 更新 ]
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